2006/10/30(月)「父親たちの星条旗」
一枚の完璧な構図の写真を巡る物語。硫黄島の摺鉢山に星条旗を立てた6人の兵士のうち、生き残った3人が英雄としてもてはやされ、戦時国債を売るための広告塔の役目を強要される。しかし、3人が立てた星条旗は2番目のものであり、6人の中には実際には加わっていない兵士もいた。いわば3人は虚飾のヒーローだったわけである。無名の兵士がばたばたと死んでいく硫黄島の凄惨な激戦と3人の揺れる心情が時間軸を前後して交互に描かれ、「戦争に英雄などいない」「国家は人間を簡単に使い捨てる」というテーマを浮き彫りにしていく。戦場シーンはスケールも悲惨さも際だっており、色彩を落とした映像が効果を上げている。虚飾に耐えきれず、酒に溺れるようになったアメリカ先住民の兵士など「昨日のヒーロー」となった3人のその後も深い余韻を与える。もちろんクリント・イーストウッド監督作品だから水準以上の出来なのだが、個人的にはもう少し上層部への明確な批判があっても良かったような気がする。
国家が人間を使い捨てるのなら、このテーマの行き着く先は国家そのものの批判だろう。それが鋭くならないのはハリウッド・メジャー作品の限界か。日本やドイツのような敗戦国は終戦時にいったん国家体制がリセットされたために、戦争中の軍国主義やナチズムの批判が当たり前で、戦争映画にはその視点がたいてい出てくる。アメリカの戦争映画に非人間的な軍隊への批判はあっても国家そのものの批判が少ないのはアメリカは第2次大戦後もずっと戦争を続けているからではないかと思う。第2次大戦時も今も基本的には変わらないのである。当時の体制を批判することは今の体制批判にもつながる。この映画を見ている時に感じたもやもや感は批判の矛先があいまいな部分から生じているように思う。
死んでいく兵士たちは自分たちを戦場に送った国への恨み言も口にしないし、国を論評することもない。それどころか、日本兵を罵ることもない(これは興行上の戦略だろう)。彼らはただただ何も言わずに銃撃され、爆撃で体を無惨に吹き飛ばされて唐突に死んでいく。彼らはいったい何を思って死んでいったのか。そこを映画はすくい上げるべきではなかったか。
例えば、笠原和夫脚本の「大日本帝国」にはこんなセリフがある。この映画は以前も書いたが、「二百三高地」のヒットに気をよくしたプロデューサーが太平洋戦争の勝ったところばかりピックアップしてつなぐという企画を出したのに対して、笠原和夫は逆にシンガポール、サイパン、フィリピンと激戦地ばかりをつないで脚本を書いたものである。映画の中で終戦後に東南アジアで軍事裁判にかけられた西郷輝彦の腹の底から振り絞るような口調のセリフ。
「大元帥陛下が我々を見殺しにするはずはなかでしょ。我々は天皇陛下の御楯になれと言われてきたとです。そう命じられた方がアメリカと手を結んで我々を見捨てるなんちゅう事は絶対にありません。日本政府はポツダム宣言を受諾したとしても、天皇陛下はたとえお一人になられたとしても、必ずわたしらを助けにきてくださるはずです。こげな、いかさまみたいな裁判で死刑にされて浮かばれますか」。
不当に死んでいく者の恨みつらみというのはこういうセリフのことを言う。「父親たちの星条旗」の主人公で衛生兵のジョン・ブラッドリーは戦後、家族に硫黄島のことを何も言わないまま死んでいったという。その無言の姿勢を戦争批判につなげたい意図は分かるのだが、時として具体的なセリフがあった方が映画は効果を上げる。脚本のポール・ハギスは映画の冒頭でブラッドリーに「戦争を知っているというバカ者。戦場の事実を何も知らない」と言わせているけれど、この映画に必要なのはそうした一般論ではない。この映画には死んでいく兵士たちの肉声が欠落しており、それが高い技術に感心させられながらも絶賛できない要因になっている。
日本側視点で描く「硫黄島からの手紙」には兵士の思いを入れやすいはずだ。捲土重来を期待したい。
ジェームズ・エルロイの原作をブライアン・デ・パルマ監督が映画化。原作は本棚を探したら、11年前に買った文庫本があったが、読んでいない。映画はブラック・ダリアことエリザベス・ショートの切断死体が発見される場面の長いワンカットとか、刑事の一人が階段から落ちて死ぬ場面の撮り方とか、突然一人称になるカメラとかデ・パルマらしい場面があるが、全体としてはそうした撮り方が浮き上がって見えないのが大きな利点。場面のアクセントにはなっても、そこだけを取り上げてどうこう言う映画ではない(しかし、言いたくなる。あの違うエピソードに連なるワンカット! あのヒッチコックを思わせる転落場面!)。全体として1940年代のロサンゼルスを描いて、面白い映画になったと思う。
主人公のニューヨーク市警の刑事ジャック・モーズリー(ブルース・ウィリス)が16ブロック離れた裁判所まで護送することになった囚人で証人のエディ・バンカー(モス・デフ)は、こそ泥などをやっているチンピラで、人生の半分ぐらいは刑務所に入っているという男だが、なぜか大事にノートを抱えている。そのノートの内容が襲撃からの逃亡の中でエディが時々言っていた「人間は変われる」という言葉の裏付けとなる。エディは今の自分とは変わって果たしたい夢を持っており、ジャックがエディの夢を信用し、自分も「変わる」決意を固めることで、幸福感あふれるラストへとつながっていくことになる。ジャックもまた変わりたい、過去に決着をつけたいという考えは持っていたのだ。
アパートのプールに現れた水の精ナーフをめぐるファンタジー。ナーフを悪の獣スクラントから守り、元いた世界に帰すためアパートの住人たちが力を合わせる。水の精と人間はかつて一緒に暮らしていたが、離れて暮らすようになって人間界には争いごとが生まれた。水の精たちは人間に接触しようとしてきたが、スクラントによって阻まれてきた。ナーフを無事に帰らせることは、世界に平和を取り戻すことにつながる、という設定。アパートの住人たちにはそれぞれにナーフを助ける能力が備わっているが、だれがどんな能力を持ち、どういう役割を果たすのか分からない、というのがM・ナイト・シャマランらしい仕掛けで面白かった。この役割が分からないという仕掛けは「アンブレイカブル」(2000年)に通じるもので、丁寧な語り直しという感じである。そしてこの1点でこの映画は寓意性が深く、広がりのある物語になったと思う。主人公はかつて医師だったが、留守中に強盗から妻子を殺され、アパートの管理人の仕事をするようになった。失意の人物がある出来事を通して再生を果たす物語であり、平凡な住人たちが自己実現を果たす物語でもある。不評が多いようだけれど、個人的には好きな映画だ。