2004/08/26(木)「石井のおとうさんありがとう」

 「石井のおとうさんありがとう」パンフレット明治時代に3000人の孤児を救った高鍋町出身の石井十次の生涯を描いた山田火砂子監督作品。身も蓋もない言い方をすれば、極めて凡庸な作品である。題材自体はいいのに、料理の仕方が決定的に凡庸すぎる。石井十次の生涯をなぞっただけで、ドラマティックなポイントがない。だから主演の松平健をはじめ出演者にも演技のしどころがない。おまけに自主上映の形での公開が中心のためか、16ミリフィルム。画質の悪さ、画面の狭さが加わって、これならテレビの方がましか、と思えてくる。脚本も担当した山田監督は「私は一人でも多くの方にこの事実を知って頂きたいと思います」とパンフレットに書いている。あまり知られていない事実(というわけでもないのだが)を知らしめることが映画製作の目的にあったとしても、生涯を単になぞっただけの映画にしていいわけがない。出演者には恵まれているのに、これでは惜しい。

 映画は日系ブラジル人の西山洋子(今城静香)が病床の祖父から1枚の写真を手渡される場面で始まる。「石井のおとうさんにありがとうと言ってくれ」。祖父からそう言われた洋子は“石井のおとうさん”について知るために宮崎県木城町にある石井記念友愛社に行き、園長の児島草次郎(大和田伸也)から石井十次がどんな人物だったかを聞く。医学生の石井十次(松平健)は明治20年、岡山県大宮村の診療所で代診中に、食べるものにも困っていた浮浪者の女から男の子を預かる。この話が広まり、十次のもとにはたくさんの孤児が集まるようになる。熱心なキリスト教信者であった十次は妻の品子(永作博美)とともに孤児の世話にあたっているうちに、医師になることをやめ、孤児院を開くことを決意。濃尾大地震や東北の大飢饉などで十次が預かる孤児は急速に増えていく。そんな十次の姿勢に芸者の小梅(竹下景子)や資産家の大原孫三郎(辰巳琢郎)は物心両面にわたる援助を積極的に行っていく。

 十次が設立した岡山孤児院には最も多い時で1200人もの孤児がいたという。孤児たちが集合した記念写真がパンフレットにも収められているが、この数は相当なものである。石井十次が成し遂げたことに対しては敬服するしかない。それはいいのだが、パンフレットの扉には「一度は放蕩に身を持ち崩しつつも、改心して立ち直り…」とある。この部分を映画はまったく省略している。10年ほど前に放映された日本テレビ「知ってるつもり?!」では性病にかかったことが十次のターニングポイントの一つだったと紹介していた。これを見た時は、それはあんまりだろうと思ったが、一人の人間を描くからにはそういう部分も必要なのである。映画はきれい事で終わった観がある。

 だから十次の人間性も分かったようで分からない部分が残る。もっともっと対象に詰め寄り、深い部分をえぐっていく視点がなければ、深みのある映画にはなりようがない。

2004/08/12(木)「リディック」

 「リディック」パンフレットヴィン・ディーゼルの出世作となった傑作「ピッチブラック」の続編。というか、間にアニメ版の「リディック アニメーテッド」というのがあるそうだ。「ピッチブラック」はあの怪物が群れをなして襲ってくる場面などをテレビで断片的にしか見ていないが、前作を見ていなくても話は通じる。宇宙の征服を企む凶暴なネクロモンガーの大軍隊にリディックが単身挑む話。小品だった前作よりセットやVFXはスケールアップして見応えがあるが、話としては今ひとつ大作の感じがない。本筋の真ん中にある昔の仲間を助けに刑務所惑星に行くくだりが長すぎるのだ。

 このクリマトリアという惑星、昼間は700度、夜はマイナス300度というとんでもなく過酷な環境で、大地をメラメラと燃やしながら、日が昇っていくシーンなどはなかなか面白い(しかし、人間が燃え上がってしまう描写は700度じゃなくて数万度はありそう)。本来ならば、ここを細かく描いた方が「ピッチブラック」の続編としては正しかったような気がする。スケール感を出すために前後に宇宙征服の設定を付け加えたのではないか、と思えてきてしまうのだ。大作には大作の話の語り方というのがある。「リディック」は話の作り方、語り方に失敗しているのである。デヴィッド・トゥーヒー監督、大作には向いていないのではないか。

 「ピッチブラック」のエピソードから5年後の設定。5つの惑星から指名手配されているリディックは宇宙の片隅にある氷の惑星でひっそりと暮らしていたが、自分に賞金をかけた者がいることを知る。襲ってきた賞金稼ぎの船を奪い、旧知のイマム(キース・デヴィッド)が住むヘリオン第1惑星に向かう。そこでエーテル状の生命体エレメンタル族のエアリオン(ジュディ・デンチ)からネクロモンガーのボス、ロード・マーシャル(コルム・フィオーレ)を倒すのはフューリア族で、リディックはその生き残りではないかと指摘される。そこへネクロモンガーの軍隊が襲ってくる。危うく難を逃れたリディックは賞金稼ぎにわざと捕まり、刑務所惑星クリマトリアに連行される。そこには5年前、行動を共にしたキーラ(アレクサ・タヴァロス)がいるからだった。リディックはキーラと再会するが、ネクロモンガーの船がリディックの跡を付けてきていた。

 アクションを織り込んで展開する作りもヴィン・ディーゼル自体も悪くないのだが、宇宙征服を企む一団との戦いにしては話が簡単すぎる。ロード・マーシャルは生死を超越した存在で超人的な能力を持つ(加速装置みたいな能力もあり、動きが面白い)。リディックはマーシャルを倒す男と宿命づけられているという設定なのだが、観客にそれを都合がいい設定と思わせないためには刑務所惑星の描写を最小限にして、本筋の話に力を入れた方が良かったと思う。

 原題はThe Cronicles of Riddick。年代記というほど長いスパンの話では全然ないが、これから年代記的に映画を作っていくつもりなのだろうか。それなら、次作ではもっとまとまった話のかける脚本家を雇った方がいいだろう。

2004/08/09(月)「スチームボーイ」

 「スチームボーイ」チラシ19世紀のイギリスを舞台にした大友克洋監督の少年冒険アニメ。超高圧蒸気を注入したエネルギー源スチームボールを巡り、オハラ財団とイギリス政府と発明一家の少年レイが争奪戦を繰り広げる。元々は大友監督のオムニバス映画「MEMORIES」(1995年)の一編「大砲の街」から構想が始まったそうで、「大砲の街」で描かれたような19世紀の技術で蒸気機関を使った凝った兵器が多数登場する。「科学は人々の幸福のためにある」というシンプルなテーマを少年の正義感に絡めて描く構成は分かりやすく、ちょっと長すぎる2時間6分の上映時間を除けば、少年向けのアニメとして大変良い出来である。善と思っていたものが悪だと分かるひねりは面白く、財団の勝ち気な娘スカーレット(スカーレット・オハラ!)などキャラクターにも凝っている。

 ただ、科学の意義を巡って対立するレイの祖父と父親の関係に収まってしまうストーリーには少し不満が残る。「スター・ウォーズ」を持ち出すまでもなく、父親が悪役という映画はたくさんあるにせよ、やはり外部に強力な敵を設定した方がすっきりしたのではないかと思う。事故でやけどを負った父親が機械の義手や仮面を付けているあたり、その「スター・ウォーズ」の影響なのかもしれない。

 1866年のイギリス、マンチェスター。紡績工場で働くレイの父親と祖父はアメリカのオハラ財団で蒸気機関の研究をしている。ある日、レイの家に祖父から荷物が届く。入っていたのは発明のメモと金属製のボール。そこへオハラ財団の男2人が訪れ、ボールを渡すよう要求する。「財団に渡すな」との手紙を読んでいたレイは抵抗し、当の祖父も帰ってくる。ボールをスチーブンスンに届けるよう言われたレイは自作の蒸気一輪車で逃げ出し、財団の歯車メカが後を追う。線路で列車と歯車メカに挟まれたレイを助けたのは列車に乗り合わせたスチーブンスンと助手のデヴィッドだった。しかし、財団は飛行船で列車の屋根を引き裂き、レイをボールとともに連れ去る。レイが連れてこられたのはロンドンの万博会場近くにあるオハラ財団のパビリオン。そこでレイは死んだと聞かされた父親に再会する。父親は研究中の事故で大けがをして祖父と意見が対立するようになった。ボールの正体は超高圧のエネルギー源スチームボールで、パビリオンはそのエネルギーで動くスチーム城だった。父親に協力するようになったレイは祖父が閉じこめられているのを知り、スチームボールを奪ってスチーブンスンに届けるが、スチーブンスンもまた、イギリス政府の下で蒸気機関の兵器を開発していた。

 序盤の一難去ってまた一難というアクションの呼吸が良く、凝ったメカデザインにも見所がある。クライマックスはイギリス軍と財団の新兵器の戦いで、蒸気兵や飛行兵、蒸気戦車など蒸気機関を使った複雑なメカが次から次へと登場し、CGを絡めてスペクタクルな展開を見せる。こうしたメカニックな面白さと同時に科学技術を戦争のために使ってはいけないという主張も明確になっているが、例えば、宮崎駿「未来少年コナン」で描かれる一直線の正義感ほど力強くはない。これは作画と同様に善悪併せ持つ複雑なキャラクター設定から来ることだと思う。外部に敵を設定した方がいいというのはこのあたりを見て感じたことで、ジュブナイルであることを考えれば、キャラクターは単純化しても良かったのではないか。

 主人公レイの声を演じるのは鈴木杏。ちょっと心配したが、不自然さはなかった。大友監督はこの映画を「小学3~5年生の男の子に見て欲しい」と言っている。うちの小学3年生の長男を誘ったら、「行かない」と一言。小学5年生の長女によると、学校では「あの絵はダサイ」ということになっているそうだ。今の小学生、まるで分かっちゃいないのである。

2004/08/06(金)「赤目四十八瀧心中未遂」

 「赤目四十八瀧心中未遂」の寺島しのぶ主人公の生島に新人の大西滝次郎をキャスティングして、その周りにベテランを配置した結果、映画は主人公よりも、主人公から見た世界を浮かび上がらせる。実際、食い詰めて東京から釜ケ崎を経て尼崎に流れてきた生島は流されているだけで、自分からアクションを起こそうとはしない。四畳半の安アパートで焼き鳥用のモツをさばき、串を刺す毎日を「これでいいんです」と受け入れている。仕事を世話した勢子ねえさん(大楠道代)や刺青師の彫眉(内田裕也)の圧倒的な存在感に比べれば、自信を消失した空気のような存在である。大西滝次郎はせりふ回しも含めて演技にぎこちない部分が残るが、それでもかまわないほど、この映画は主人公を描くことにそれほどの興味を持っていないようだ。生島の過去は暗示されるだけで、明らかにされない。生島は同じアパートに住む綾(寺島しのぶ)から、赤目四十八瀧へと死出の旅路に誘われても流されていくことになる。

 車谷長吉の直木賞受賞作を荒戸源次郎監督が映画化して、昨年のキネマ旬報ベストテン2位にランクされた。荒戸源次郎にとっては「ファザーファッカー」以来8年ぶりの作品となる。普通、心中を題材にした映画と言えば、男女の情念が渦巻くものだが、この映画にそれは希薄だ(だから心中未遂に終わるのだ)。生島と綾が交わる描写はそれなりに官能的なのだが、荒戸源次郎監督の演出には枯れた部分があり、例えば、こうした題材を撮るのにふさわしいと思える全盛期の今村昌平や神代辰巳の粘りのある描写に比べれば、物足りない部分も残る。つまり性描写を突き詰めることによる生と性の迫力みたいなものには欠ける。

 しかし、少し現実離れした描写を入れたことに、この映画を荒戸源次郎が撮った意味があるのだと思う。土管の中のガマガエルや少年の人形を子どものように扱う老夫婦の描写などは生島と綾の生に対する死を象徴している。荒戸監督はシネマプラセットの第1作で生と死の境界線を描いた「ツィゴイネルワイゼン」(鈴木清順監督)をどこかで引きずっているのかもしれない。

 赤や白のワンピースを着た寺島しのぶは掃きだめのような環境の中で屹立しており、映画がメインに描いている、あるいはもっとも強い印象を与える存在である。極楽にいる鳥という迦陵頻迦(かりょうびんが)の刺青を背中に彫っている綾は生島にとって生と性と聖なるものを象徴した存在にほかならない。生島も綾もぎりぎりのところで生きており、それをお互いに感じたからこそ惹かれ合うのだろう。この映画の魅力の多くは綾を演じた寺島しのぶの肉感的であると同時に清楚さを感じさせるたたずまいから生まれている。

 2時間39分、長いとは思わなかった。描写そのものは平易でユーモアも随所にある。平易な描写の総体をどう解釈するかは考える必要があるのだけれど、深く考えずに監督の差し出す描写を楽しむだけでもいいのではないかと思う。かつて鈴木清順は「映画が分かりにくいのは俳優の演技が悪いからです」と言ったが、少なくともこの映画、俳優の演技は実に分かりやすい。

 化け物のような容貌の沖山秀子、にっかつロマンポルノではおなじみだった絵沢萌子、狂気をにじませる大楽源太、卑屈で凶暴な新井浩文、ヤクザがぴったりな赤井英和、麿赤児など脇役の演技がいちいち抜群だ。コンクリート詰めの場面にポップな音楽を流す千野秀一のセンスにも感心した。

2004/08/05(木)「キング・アーサー」

 「キング・アーサー」パンフレットアーサー王伝説を「トレーニング デイ」「ティアーズ・オブ・ザ・サン」のアントワン・フークア監督が映画化。ジョン・ブアマン「エクスカリバー」のような剣と魔法のファンタジーを期待したら、魔法の部分はさっぱりなく、剣が中心の活劇映画になっていた。「エクスカリバー」は15世紀にまとまったトーマス・マロリー「アーサー王の死」を基にしていたのに対して、この映画はアーサー王伝説そのものを取り上げているからだ。だから、魔術師マーリンは魔術師ではなく、ローマ帝国に反逆するブリテン人のリーダーであり、円卓の騎士たちの聖杯を求める旅のシーンもない。だからといって、つまらないかというと、そんなことはなく、中盤までは傑作と思った。いや、物語に入るまでの序盤の処理はあまりうまくないので、中盤はとても面白かったと言うべきか。「ロード・オブ・ザ・リング」には負けていても、この中盤があるだけで「トロイ」には十分勝っている。ジェリー・ブラッカイマー製作の映画にしては珍しく、骨太の映画に仕上がっている。

 中盤、アーサーたちは最後の任務でハドリアヌス城壁を越えて、北の地方にいる一家を助けに行く。そこでアーサーたちが見たのはキリスト教の布教を理由に現地の人々を苦しめる愚かな司祭。アーサーは懲罰を受けている長老を助け、閉じこめられた蛮族ウォードの女と子どもを救出する(ここでようやくヒロイン、キーラ・ナイトレイが登場するのだった)。自由と平等をローマ人の司祭から教わったアーサーはここで行われていることを見て、愕然とする。表面とは裏腹に腐敗したローマ帝国に対する怒りがわき上がってくるのだ。村には凶暴なサクソン人が迫っており、アーサーたちは村の人々も一緒に連れて帰ろうとする。ここから氷った湖上でのサクソン人との対決までがこの映画の白眉。フークア監督は文句の付けようのない場面に仕上げている。

 映画はローマ帝国とウォードとサクソンの三つどもえの状態から、アーサーとウォードが手を組んでサクソンの侵略に対抗する流れを見せ、クライマックスはハドリアヌス城壁でのスペクタクルな戦闘シーンが描かれる。ここは黒沢明「七人の侍」風の展開で、スペクタクル的にはあまり演出がうまいとは言えない。しかし、ローマ帝国の兵士として15年間戦ってきたアーサーがそれと決別して民衆のための戦いを繰り広げるわけだから、心情的には納得のいくものとなっている。

 アーサーを演じるクライブ・オーウェンが地味なので、最初に登場するランスロット(ヨアン・グリフィス)が主人公かと思った。他の出演者もグウィネヴィア役のキーラ・ナイトレイを除けば、地味な役者ばかりだが、それぞれに渋い味を出していて悪くない。ナイトレイは薄汚れた格好で登場した後、お約束通り、美女に変貌していく。弓の引き方も決まっており、好感度が高い。