2004/10/08(金)「テイキング・ライブス」

 マイケル・パイの原作にアンジェリーナ・ジョリーの役柄は登場しないそうだ。この映画、中盤まではサイコスリラーとしてまずまずの出来なのだが、終盤の展開がメタメタである。脚本家(ジョン・ボーケンキャンプ)がジョリー主演にするために書いたと思われる部分が物語の完成度を著しく落としているのだ。途中で(といっても終盤に近い)犯人が分かる構成はヒッチコックあたりを参考にしたのかと思ったが、その後の展開に今ひとつ工夫がない。ヒッチコックと言えば、音楽もバーナード・ハーマン風で、ジョリーが死体発見現場に横たわるシーンに流れる音楽は「めまい」を参考にしたかのよう。映画自体の完成度は決して褒められたものではないにもかかわらず、そこそこ楽しめた気になるのは一重にFBI捜査官役をカッコよく演じるアンジェリーナ・ジョリーのお陰だろう。ジョリーの場合、「トゥームレイダー」などでもそうだが、本人は好演し、好感が持てるのに映画としてはパッとしない出来の作品が多い。監督に恵まれていないのだ。

 カナダのモントリオールが舞台。工事現場で絞殺され、両手を切断された死体が見つかる。モントリオール警察のレクレア(「キス・オブ・ザ・ドラゴン」のチェッキー・カリョ。パンフレットの表記ではチェッキー・ケイリオ)はFBIに捜査協力を要請。単身乗り込んできたイリアナ・スコット(アンジェリーナ・ジョリー)はプロファイリングに天才的なサエを見せる。イリアナはモントリオール警察のパーケット(オリビエ・マルティネス)、デュバル(ジャン=ユーグ・アングラード)とともに捜査を進め、事件の目撃者コスタ(イーサン・ホーク)を追及する。その頃、ある老婦人が警察に「死んだはずの息子を見た」と届け出る。その老婦人、アッシャー夫人(ジーナ・ローランズ)の息子マーティンは1983年、家出した後に事故死していた。気になったイリアナはアッシャー夫人を訪ね、マーティンが双子の兄のリースが死んだ後に家出したことを聞かされる。墓を掘り返した結果、埋葬された死体はマーティンではなかった。マーティンは20年間にわたって、次々に殺人を犯し、その人間になりすまして(人生を乗っ取って=テイキング・ライブス)生きてきたらしい。警察はコスタを囮にしてマーティンをおびき出す作戦を取る。コスタの周辺には謎の男(キーファー・サザーランド)がいた。

 捜査を進めていくうちにイリアナはコスタに惹かれていく。一応の事件が解決した(と思われた)後、ホテルを訪ねたマーティンを迎え入れるイリアナの表情がいい。その後にある激しいラブシーンを予感し受け入れているようなアンジェリーナ・ジョリーのたたずまいは大人の女を感じさせる。アンジェリーナ・ジョリーに関しては十分に満足のいく作品なのだが、それだけに前半と後半とで別の映画のようになる腰砕けの脚本が残念すぎる。監督はD・J・カルーソー。劇場用映画は2作目らしいが、豪華キャストを生かし切れていない恨みが残る。アップを多用した撮り方だけは映画的だった。

 アッシャー夫人が最初に出てきた時、そのファッションからしてジーナ・ローランズかと思い、いや、こんなにおばあさんのはずはないと思い返したのだが、やはりジーナ・ローランズだった。うーん、随分おばあさんになったものだ。

2004/10/06(水)「スクール・ウォーズ HERO」

 「スクール・ウォーズ HERO」パンフレット不良の巣窟だった伏見工業高ラグビー部を日本一に導いた山口良治監督を描く熱血青春映画。テレビドラマを見る習慣はないので、山下真司主演のテレビ版は見たことがない。NHK「プロジェクトX」でも取り上げられたそうだが、それも見ていない。監督は関本郁夫。日本映画データベースにあるフィルモグラフィーを見て愕然とするのは、僕が劇場で見た関本監督作品は1本だけで、その「天使の欲望」(「涼子を殺す 殺します」という七五調の字幕が印象的だった)は、25年前の作品だった。すれ違いっぱなしの監督なのである。

 「スクール・ウォーズ HERO」はその関本監督の30本目の作品に当たる。映画に新しい部分はない代わりにしっかりと作ってあり、熱い映画になっている。ラグビー部と熱血教師という設定はテレビや映画で何度も繰り返され、今の時代なら冷笑的にパロディとしてしか成立しにくい物語だが、時代が1970年代なので、熱血先生がラグビー部を精力的に立て直していく描写に少しも違和感がない。生徒との本音のぶつかり合いに素直に感動できる。一番褒めるべきは映画初主演の照英だろう。自身もスポーツマンである照英は恐らく、この物語を心の底から信じている。だから泣いたり怒ったりの演技が演技らしくなく、本当のように見える。その全力を傾けた姿勢に映画の中の生徒と同様、観客も心を動かされることになる。物語を信じている点では関本監督も同じなのだろう。映画に本物の感情とリアリティをもたらすのは、そうした作り手たちの姿勢なのだと思う。

 1974年の京都。ラグビーの元全日本代表だった山上修治(照英)は実業団監督への誘いを断って市立伏見第一工業高に赴任する。荒れる生徒たちを擁護して、校長の神林(里見浩太朗)が言った「生徒たちは寂しいんや」という言葉に惹かれたからだ。しかし、高校は予想以上に荒れていた。酒やたばこは当たり前、校舎の中をバイクで走り回ったり、先生の服に火を付けたり、暴力沙汰も多かった。その不良の中心がラグビー部員と知った山上はラグビー部の監督になり、生徒たちに全力でぶつかっていく。なかなか信用しない生徒を見て落ち込む山上を支えたのは妻(和久井映見)の励ましだった。山上の努力で次第に変化が見え始めたラグビー部だが、京都府高校総体では1回戦で大園高校に112-0で完敗。生徒たちは山上に「俺たちをもっと鍛えてくれ」と泣いて悔しがる。生徒たちを一人ひとり殴って気合いを入れる山上の姿に感銘を受けた生徒たちは心機一転、猛練習に励むようになる。

 こうしたメインプロットに映画はさまざまなエピソードを加えていく。京都一のワルと言われた“弥栄の信吾”(小林且弥)の体格を見込んでラグビー部に入れるため、山上が信吾の家を訪れたら、あばら屋に大酒飲みの父親(間寛平)がいる場面とか、その信吾と殴り合って絆を深める場面などはこうした青春ものによくある場面なのにこの映画では十分効果的だ。あるいは朝、校門に立って生徒たちに「おはよう」と声をかけ始めた山上に賛同して他の先生たちが加わる場面、生徒を殴ったために1カ月の謹慎処分を受けた山上のアパートを訪ねた生徒たちが山上を励ます場面などなどはいつかどこかで見た光景であるにもかかわらず、この映画では一直線に感動的である。

 ラグビー部員を演じるのは無名の若手俳優ばかりだが、それぞれに懸命に演じていい味を出している。マネジャー役のSAYAKAは「ドラゴンヘッド」などより相当いい。試合場面にも迫力があり、この映画、決して手放しで傑作とは言えないけれど、その熱さだけは十分に観客に伝わってくる。熱血が空回りしない作品はまれである。

2004/10/01(金)「アメリカン・スプレンダー」

 「アメリカン・スプレンダー」チラシ公式ホームページの作りは、サエない男のラブストーリーといった感じだが、実際にはハービー・ピーカーというコミック原作者の自伝的映画で、ラブストーリーの部分は大きくない。ハービーは自分の身の回りのことを書く、いわば私小説的なコミック作家。病院の書類係で2度の結婚にも破れた男がコミックの原作を書くことで、ささやかな幸福を得るという話である。

 といってもサエない日常にそれほどの変化はない。監督のシャリ・スプリンガー・バーマンとロバート・プルチーニはドキュメンタリー作家だから、物語よりもハービーという人間を浮かび上がらせることに重点を置いている。俳優とコミックの絵と実際のハービー・ピーカーまで登場させる手法は面白く、映画製作の過程まで見せる。このあたりがアカデミー脚色賞にノミネートされた理由だろう。脚色の過程を描いたスパイク・ジョーンズ「アダプテーション」を思い起こさせる手法だが、違うのは「アダプテーション」が終盤、フィクション性を高めたのに対して、この映画は事実に近づいていくこと。実際のハービーがたびたび登場して物語に解説を加えており、こういう表現方法によって、物語自体の求心力はやや薄れたような気がする。「アメリカの輝き」というタイトルとは裏腹にアメリカの小さな日常を描いた映画になっている。

 クリーブランドの退役軍人病院の書類係として働くハービー(ポール・ジアマッティ)は2度目の妻にも逃げられ、退屈な日々を送っていた。ある日、ハービーは近所のガレージセールでロバート・クラム(ジェイムズ・アーバニアク)と知り合う。クラムは異色のコミックを書き、やがて「フリッツ・ザ・キャット」の作者として有名になる。ハービーも一念発起して自分の日常を書くことにする。絵は描けないので、コミックの原作だが、それを読んだクラムは「傑作だ」と評価する。「アメリカン・スプレンダー」と題して出版したコミックはマスコミでも高い評価を受ける。デラウェア州でコミック書店を経営するジョイス(ホープ・デイヴィス)は自分のために取っておいた「アメリカン・スプレンダー」を相棒に売られてしまい、ハービーにコミックを譲ってくれないかと手紙を書く。それをきっかけに2人には交流が生まれ、クリーブランドにやってきたジョイスとハーピーは結婚することになる。テレビの人気番組にも出演するようになり、ハーピーは有名になるが、ある日、がんに冒されていることが分かる。

 ハービーは妻の協力でがんの闘病記までコミックにする。この闘病記はさらりとした描写で、映画の狙いがこんなところにはないことを示している。監督2人の頭にあったのはあくまで、普通のダメな中年男の生き方であり、ハービーその人を描くことだったのだろう。ハービー・ピーカーがアメリカでどのくらい有名なのか知らないが、この内容から見てコミック自体はそれほど売れているわけではないと思う(当初は自費出版だったそうだ)。それでも世のダメな中年男の共感を得る部分は大きいようだ。

 主役を演じるポール・ジアマッティは実際のハービーと風貌がそっくり。原作者がテレビに出る場面はそのまま当時のビデオが使われているが、全然違和感がない。このほか、NERD(おたく)のトビー役のジュダ・フリードランダーなど話し方まで実際のトビーをそっくりにまねている。

2004/09/25(土)「アイ,ロボット」

「アイ,ロボット」パンフレット昨日見た。「ダークシティ」のアレックス・プロヤス監督がアイザック・アシモフのロボットシリーズにインスパイアされて撮ったSF。ジェフ・ヴィンターの“Hardwired”という脚本が基になっており、これにアシモフの「われはロボット」や「鋼鉄都市」などを組み合わせたという。ロボットが犯人とみられる殺人事件によって始まり、ロボット工学三原則をメインにしたプロットから、アクションたっぷりのスケールの大きな話に展開していく。この脚本の完成度が高い。知的なプロットであるばかりでなく、ミステリとしても良くできており、しかも大衆向けの視線をずらしていないので、同じような展開を見せた押井守「イノセンス」より分かりやすい。ロボットのVFXはレベルが高いし、ロボットを嫌悪する主人公のキャラクターも彫りの深いものになっている。しっかりしたSFになっている点でここ数年のSF映画では最も充実感があり、数少ないロボットテーマのSF映画に限れば、スピルバーグ「A.I.」など軽く越えてこれがベストだろう。

三原則とは言うまでもなく、

1.ロボットは人間に危害を加えてはならない
2.ロボットは人間から与えられた命令に服従しなければならない
3.ロボットは第1条、第2条に反する恐れのない限り、自分を守らなければならない

の3項である(ポール・バーホーベン「ロボコップ」では独自のものに置き換えて使ってあった)。アシモフの小説ではこれに矛盾する状況が現出し、ミステリ的に展開されることが多い。アシモフはミステリ方面でも評価の高い作家で、「黒後家蜘蛛の会」シリーズなど非SFのミステリもある。

「アイ,ロボット」も三原則との矛盾が発端となる。2035年のシカゴ、ロボット工学の権威であるラニング博士(ジェームズ・クロムウェル)がビルから転落死する。博士の死の状況から刑事のスプーナー(ウィル・スミス)は他殺を疑う。その第一容疑者がUSロボティクス(USR)社の新型ロボットNS-5のサニーだった。サニーは逃走するが、警察によって署に連行される。スプーナーの尋問に対し、サニーはロボットが持つはずのない怒りの感情を見せた。サニーはラニング博士によって感情回路をインプットされたユニークな存在らしい。警察はサニーの犯行と断定。しかし、ロボットに殺人罪は適用されないと主張するUSR社の社長ロバートソン(ブルース・グリーンウッド)によって、社に連れ帰られ、廃棄処分を受けることになる。USR社はそれまでのNS-4型に代わって、NS-5型の量産を進めていた。世界中に2億体のNS-5が送り込まれていく。スプーナーはNS-4型のロボットが格納された地域で、NS-5がNS-4を破壊している光景を見る。そして大量のNS-5たちが人間に対して反乱を起こし始める。

三原則があるのに、なぜサニーは博士を殺せたのか、なぜ博士はサニーをユニークな存在にしたのか、なぜロボットたちは反乱を起こしたのか、その背後にいるのは誰なのかという謎を散りばめつつ、ストーリーは進行する。加えて、主人公スプーナーにも三原則を頑固に守ったロボットに絡む哀しい過去がある。スプーナーはロボットを毛嫌いし、アナログな生活を送っている男なのである。さまざまな状況をタイトにまとめ、ユーモアを織り込みつつ映画を作り上げたプロヤスの演出は見事で、つくづくSFを分かっている監督だなと思う。

プロヤスは「アイ,ロボット」に飽きたらず、純粋なアシモフ作品を映画化したい希望を持っているそうだ。それならば、同じロボットシリーズで、人は本能的に宇宙を目指すものだという力強い主張に彩られた傑作「はだかの太陽」をぜひぜひ映画化してほしいと思う。

2004/09/17(金)「バイオハザードII アポカリプス」

 ミラ・ジョヴォヴィッチ前作のラスト、目覚めたアリス(ミラ・ジョヴォヴィッチ)が荒れ果てた街を目にする場面から始まるのかと思ったら、映画はそれより少し前、アンブレラ社の地下研究所ハイブに完全装備の特殊部隊が入っていくところから始まる。案の定、それによってアンデッド(ゾンビ)たちが地上にあふれ出てきて、ラクーンシティはパニック状態、人々は次々にアンデッドになっていく。そこでアリスが目覚める場面へとつながる。アリスが目覚めた理由は実は、というのが映画の中心主題で、今回はアンデッドは少し背景に退き、アンブレラ社が行っていたT-ウィルスの研究とそれによって生まれたモンスター、その目的が明らかになっていく。前作よりSF度は増しており、これはゾンビ映画というよりもSFアクション。B級テイストたっぷりの出来の良いノンストップアクションである。

 ポール・W・S・アンダーソンからバトンタッチした監督デビューのアレクサンダー・ウィットはスピーディーな演出で物語を語っていく。その反動か、喜怒哀楽の感情描写はどこかに置き忘れたようだが、アクション中心なのだから、それほどの不満は感じない。ビジュアルな題材をビジュアルに撮ることに徹して、ウィットは十分な演出を見せている。

 バレンタイン役のシエンナ・ギロリー前作はアンデッドに汚染されたハイブからの脱出を描くサバイバルものだったが、今回も核兵器によって消滅させられるラクーンシティからの脱出がメインプロットとなる。アリスやバレンタインたちはT-ウィルスを開発したアシュフォード博士(ジャレッド・ハリス)の依頼で、脱出路を教えてもらう代わりにシティで行方不明となった娘アンジェラ(ソフィー・ヴァヴァサー)を助けることになる。シティにはアンデッドのほか、T-ウィルスに感染してモンスター化した犬ケルベロスや生物兵器のネメシスがアリスたちの前に立ちはだかる。果たしてアリスたちは脱出できるのか。

 SF度を増したのはアリスの設定で、前作では普通の人間だったが、今回は超常能力を持つスーパーヒロインとなっている。この能力を得た秘密が物語と関わっており、ネメシスの正体もまたそうである。腕のある監督なら、このあたりの悲劇性をもっと前面に出したはずで、その点がウィット演出の弱いところではある。また、アクション場面でカットを割りすぎるきらいがある。ジョヴォヴィッチにハードアクションが(たぶん)できないのだろうが、もっとじっくり見せてくれと言いたくなる。

 注目すべきは今回初登場のジル・バレンタイン役シエンナ・ギロリーの抜群のカッコよさ。ゲームからそのまま出てきたような髪型、スタイル、コスチューム、身のこなしでアクションをこなし、ジョヴォヴィッチに負けない魅力を放つ(「ラブ・アクチュアリー」にも出ているそうだ)。この2人、ともにいかつい顔つきが似ていて、ひたすらクール。この2人が出るのなら、当然作られるであろう3作目にも期待を抱かせる。