2005/10/15(土)「この胸いっぱいの愛を」

 「この胸いっぱいの愛を」パンフレット梶尾真治原作の「クロノス・ジョウンターの伝説」を元にして、「黄泉がえり」の塩田明彦が監督したファンタジー(梶尾真治は映画をノベライズした「この胸いっぱいの愛を」も書いている)。クロノス・ジョウンターとは不完全なタイムマシンの名前とのことだが、映画にタイムマシンは登場しない。飛行機からなぜか20年前にタイムスリップした主人公の鈴谷比呂志(伊藤英明)が少年時代に好きだった年上の女性和美(ミムラ)を救おうと奔走する。和美は難病にかかっており、手術をすれば助かったのに、それを拒否して死んでしまったのだ。これに同じ飛行機に乗っていた3人の男女(勝地涼、倍賞千恵子、宮藤官九郎)のエピソードが並行して描かれる。

 物語の視点は逆だが、構成としては「黄泉がえり」と同じで、あの映画が脇筋のエピソードでも泣かせたようにこの映画でも泣かせる話になっている。特に宮藤官九郎のエピソードなどは一場面だけなのに情感豊かに描いてうまいと思う(これは中村勘三郎のうまさのためもある)。僕は本筋の方も面白く見たけれど、難病をポイントにしてしまうのには少し抵抗を感じた。どう生きる意志を持たせるか、和美がどのようにして生きようと決意したかをもっと詳細に描くと、良かったかもしれない。和美が手術を受けようと考えを変えたら、主人公は過去から消えてしまう。愛する人のために願いがかなった時、自分は消えるという切なさをもっと前面に出してくれると、好みの映画になったと思う。主人公に「黄泉がえり」の草なぎ剛ほどの共感を持てないのは伊藤英明の演技のためか、脚本の描き方が不十分なためか。恐らく両方が原因なのだろう。

 舞台は北九州市門司。東京から仕事で北九州へ向かった主人公がふと気がつくと、かつての自宅のそばにいて、20年前の自分(富岡涼)に出会い、タイムスリップしたことに気づくという冒頭が好調である。比呂志は少年時代、離婚した母から祖母(吉行和子)に預けられてここで過ごした。慣れない学校と自宅で寂しさを紛らわせてくれたのが、近くに住む大学を卒業したばかりの和美だった。将棋の相手になり、バイオリンも教えてくれた和美を比呂志は好きだったが、和美はある日、入院してそのまま帰らぬ人となった。その間の事情をタイムスリップした比呂志は知り、和美に手術を受けさせようと、奔走することになる。同じ飛行機に乗っていた布川輝良(勝地涼)もタイムスリップしていた。布川はヤクザで殺しに失敗して、北九州でしばらく身を潜めるよう言われたが、たぶん自分は殺されると覚悟している。布川の母親は自分を生んだ時に死んでおり、母親に会えなかったことが布川の心残りとなっている。布川は母親が勤めていた保育園の園長(古手川祐子)から、母がレイプされ、自分がその結果の子だったことを知る。これもいい話なのだが、母親が生むことを決意した理由に今ひとつ説得力がない。

 SF的に考えれば、同じ飛行機には多数の乗客がいたのに、なぜ4人だけがタイムスリップしたのか、なぜ20年前なのかという点があいまいである。映画のテーマである「人生で一つだけやりなおすことができたら」という思いは他の乗客にもあるはずだろう。原作の場合はタイムマシンによって自分の意志で過去へ行くわけだから、かまわないのだが、映画の場合は4人の特殊性を何か設定しておいた方が良かったと思う。タイムスリップはあくまで物語を語るための手段というのは分かるのだが、そういう細部が重要なのである。いい話なのに本筋が「黄泉がえり」に劣った印象なのは細部の甘さがあるからだろう。

2005/10/10(月)「ナショナル・トレジャー」

 伝説の財宝をめぐる冒険アクション。別につまらなくはないのだが、オリジナリティはあまりない。アメリカ独立宣言書に財宝のありかが隠されているのが分かり、前半は国立公文書館からそれを盗む作戦がメイン。後半はお宝を狙う一団(ボスはショーン・ビーン)と主人公(ニコラス・ケイジ)の争奪戦となる。ジェリー・ブラッカイマー製作、ジョン・タートルトーブ監督。

 DVDには特典として最初に予定されていたエンディングを収録。いかにも続編を臭わせることから変更されたらしいが、実際に続編が計画されている。こういう冒険もの、ニコラス・ケイジでは少し弱いような気がする。

2005/10/09(日)「セルラー」

 携帯電話を軸にしたサスペンス・アクション。わけの分からないまま5人の男たちに自宅から誘拐された女(キム・ベイシンガー)が壊れた電話の線を必死につないで、かけた電話がある男(クリス・エバンス)の携帯にかかる。監禁されている場所も分からないので電話が切れたら命がないというシチュエーションの中、アイデアを詰め込んだ脚本がよい出来だ。B級だが、予想より面白かった。なぜ警察に事件を届けられないのかという部分をちゃんと押さえており、あとはジェットコースター的展開で見せる。悪役側にジェイソン・ステイサム、定年を迎えた刑事にウィリアム・H・メイシー。ベイシンガーが老けたのには少しがっかり。

 監督は「デッド・コースター ファイナル・デスティネーション2」のデヴィッド・R・エリス。原案は「フォーン・ブース」のラリー・コーエン。脚本はクリス・モーガンだが、製作初期に「バタフライ・エフェクト」のJ・マッキー・グラバーが関わっていたとのこと。クレジットはされていない。

2005/10/07(金)「シン・シティ」

 「シン・シティ」パンフレットフランク・ミラーのグラフィック・ノベルをロバート・ロドリゲスとミラー自身が監督、これにクエンティン・タランティーノが一部協力している(クレジットは特別ゲスト監督)。相当に過激なバイオレンスとスタイリッシュな映像で綴るハードボイルドな世界で、モノローグの多さがいかにもハードボイルドの一人称っぽい感じである。光るのはモノクロームにパートカラーを入れたビジュアル面のセンスの良さ。語られる3つの話自体に新しい部分はあまりないが、とにかくビジュアルが凄すぎる。劇画をそのまま映画にしたようなこの映像のオリジナリティは高く評価すべきだろう。とはいっても、個人的には首が飛んだり、手足を切断したりの容赦ない残虐描写は苦手。モノクロームである分、リアルさから少し逃れているのが救いなのだが、もう少し抑えても良かったのではないかと思う。スタイリッシュさはその方が際立つだろう。出てくるのはぶっとんだキャラクターばかりである。イライジャ・ウッド扮する人食いケヴィンのキャラクターは強烈で、「羊たちの沈黙」のレクター博士の異常さをはるかに超えた不気味さがある。悪役はすべて異常者という徹底ぶりに加えて男はすべて荒っぽく、女はすべて色っぽいという、もう単純すぎるぐらい単純な図式の中で、熱いハートを持ったタフな男たちのドラマが語られていく。ファミリー映画の監督になってしまったかと思わせたロドリゲスが本調子を取り戻した一作。というより、ロドリゲスのベストと思う。

 映画は殺し屋のジョシュ・ハートネットが登場するプロローグで犯罪都市シン・シティの非情さをかいま見せた後、ブルース・ウィリス主演の「That Yellow Bastard」、ミッキー・ローク主演の「The Hard Goodbye」、クライブ・オーウェン主演の「The Big Fat Kill」と続いて、再びブルース・ウィリスの話に戻り、エピローグでハートネットが顔を出すという構成。同じシン・シティを舞台にしているだけで、3つの話それぞれに関連は薄いが、時系列を前後に動かす構成はもしかしてタランティーノのアイデアか。

 3つのエピソードの中では「The Hard Goodbye」が好みである。傷だらけの顔で娼婦にも相手にされない仮出所中の大男マーヴは明らかにレイモンド・チャンドラー「さらば愛しき女よ」の大鹿(ムース)マロイを踏襲している。マーヴは一夜を共にした天使のような女ゴールディ(ジェイミー・キング)を殺され、犯人に仕立てられそうになる。復讐を誓ったマーヴはストリップ・バーのケイディで追っ手を迎え撃ち、事件の背後にある大物がいるのを知る。ゴールディを殺したのはシン・シティの外れにある農場に住む不気味なメガネ男ケヴィン(イライジャ・ウッド)だった。農場を襲撃したマーヴは逆にケヴィンに倒される。気がつくと、自分の保護監察官ルシール(カーラ・グギノ)も監禁されていた。部屋の中には女たちの生首が飾られている。ケヴィンは人肉を食う異常者で、ルシールの目の前で笑みを浮かべながらルシールの手を食べたという。部屋を逃げ出したマーヴは装備を調えて、反撃に向かう。

 マーヴを演じるミッキー・ロークは凝ったメイクで別人のよう。車にはねられても銃で撃たれても死なないタフな男の悲しい行く末を哀感を込めて好演している。このエピソードだけでも十分満足なのだが、映画はさらに2つのエピソードを楽しめるのでお腹いっぱいという感じ。出てくる多くの女優の中では予告編で目立っていたジェシカ・アルバよりも、日本刀を振り回すデヴォン青木(なんとロッキー青木の娘という)と、とても「スパイキッズ」の母親とは思えないカーラ・グギノ、2役を演じるジェイミー・キング、女ボスのロザリオ・ドーソンの印象が強い。

 日本映画だったら、こういう題材、アニメにしてしまうだろうが、これはやはり実写でやることに意味がある。ルトガー・ハウアー、ベニチオ・デル・トロ、マイケル・マドセン、マイケル・クラーク・ダンカンというくせ者ぞろいの役者たちがそれぞれに見せ場を作っていて楽しいのだ。アメリカでは大ヒットした上に評価も高く、早くも続編どころか3作目までの製作が決まっているという。

2005/10/03(月)「蝉しぐれ」

 「蝉しぐれ」パンフレット「忘れようと、忘れ果てようとしても、忘れられるものではございません」。

 ラスト近く、主人公の牧文四郎(市川染五郎)が藩主の側室になった幼なじみのおふく(木村佳乃)に言う。そうだろうか、と思う。そんなに文四郎にとって忘れられない出来事だったろうか。2人が言っているのは少年時代、川でヤマカガシに噛まれたおふくの指を文四郎が吸って毒を抜いた思い出である。それはおふくにとっては忘れられないことになっただろうが、文四郎にとってそんなに強烈な思い出になるだろうか。もちろん、それを含めたおふくとの交流というのなら、話は別だ。父親の遺体を乗せた大八車を引く文四郎を手伝って、大八車を懸命に押すおふくの姿なら、文四郎が忘れ果てることなどできないだろう。上記のセリフは藤沢周平の原作にはない。当たり前である。もし、このセリフに重みを持たせたいのなら、指を吸ったことによる2人の感情の高ぶりまで細かく描く必要があるだろう。残念ながら、映画にそれはない。むしろ、この場面で少年時代の文四郎を演じる石田卓也の棒読みのセリフにいきなりがっかりさせられた。これに続く、文四郎の親友2人のセリフ回しも同じ。あの程度でOKを出してはいけないだろう。

 しかし、問題はそんな些末な部分にあるのではない。映画から時の流れがまったく欠落していることが問題なのだ。石田卓也から市川染五郎に役者が移る場面とクライマックスからエピローグに移る場面に時の流れが感じられない。前者はもう少し映画的な転換を使えば、なんとかなっただろうが、より深刻なのは後者だ。エピローグの場面ではクライマックスから20年が過ぎた設定である。市川染五郎と木村佳乃のメイクはとてもそう見えない。「文四郎さんのお子が私の子で、私の子どもが文四郎さんのお子であるような道はなかったのでしょうか」というおふくのセリフは文四郎への愛の告白であると同時に違う人生を歩みたかったという切実さが込められている。人生はままならない、ということを象徴した場面だ。なのに、この全然老けていない2人のメイクを見ると、セリフに重みがないのである。監督の黒土三男はこのエピローグを思い入れたっぷりに撮っているけれども、効果を上げていないのはそのためだ。

 長編小説を2時間余りの映画にする場合、どこかを省略するのは仕方がない。この映画の脚本では反逆の汚名を着せられた父親の処分によって、一軒家から古ぼけた長屋に移らされた文四郎と母親(原田美枝子)の描写を簡単にすることで行っている。ここが簡単なので処分の期間が異様に短く感じてしまうのだけれども、それは仕方がないと思う。しかし、一方で全部を描けないのなら、原作を解体して監督独自の視点で組み立て直すことも必要だったのではないかと思う。少年時代を長い回想にしてしまう方法もあっただろう。回想なら細部が省略されていてもあまり気にならないかもしれない。ただし、原作の肝はこの苦闘の少年時代にある。数々の苦難を乗り越えて、人間的に成長していく姿こそが僕らを感動させるのだ。だから僕はこの原作を教養小説だと思った。

 当然のように、文四郎が道場の師範から秘剣村雨を教わるシーンもない。そこもまた簡単にすまされている。文四郎は逆境にあったがために剣に打ち込むしかなかった。人々からの嘲りとひどい仕打ち、みじめな暮らしに耐えて剣に打ち込むことでそれを紛らしていた。序盤と終盤だけを取り上げ、文四郎とおふくの悲恋としてまとめてしまうと、物語はなんだか簡単なものになってしまう。いや、そうならないためにもう少し話に工夫をすべきだった。

 黒土三男はこの映画化に15年をかけたという。映画化のあてもないのにロケハンし、脚本を書き、藤沢周平を根負けさせて映画化の許可をもらい、資金集めにアメリカまで行ったという。その間の苦闘は想像に余りある。評判になったNHKのドラマ版の脚本も書いたのに、それでも大好きな原作を自分の手で映画にしたいという思いを持ち続けた熱意には頭が下がる。この映画に黒土三男は満足しているだろうか。人生はままならないということをこの映画の出来こそが象徴しているように僕には思える。