2013/02/11(月)「希望の国」
このサイテーの映画がキネ旬ベストテン9位に入ったということに驚くほかない。
底の浅い脚本、問題を深化していかない脚本、取材不足が露呈する脚本(あるいは取材が消化できていない脚本)に大きな欠陥がある。原発近くに住む両親は自殺し、原発から遠く避難した息子夫婦は元気を取り戻す。この単純な展開に唖然とする。放射能に汚染された地域はさっさと捨てましょうね、他の地域にはまだ希望がありますよというメッセージにしか見えないのだ。
このストーリーのどこに希望があるのか。「一歩、一歩、一歩、一歩」と言いながら雪の中を歩く男女にかぶさって「希望の国」というタイトルが出るのを見て、小学生でも考えつきそうなアイデアをよく恥ずかしげもなく描けるなと思った。
昨年放映されたNHKの番組で福島の人たちを対象にしたこの映画の試写の様子が紹介されていた。見た人から「なぜあんなラストにしたんですか?」と質問が出たが、映画を見てその質問の理由が分かった。答えも分かった。監督がバカだからです。
何より腹立たしいのは映画が長島県という架空の県を舞台にしていることだ。長崎と広島を合わせた名前というのもふざけているが、なぜ福島県にできないのだろう。これでは現実と向き合う姿勢を放棄したとしか思えない。
2013/02/10(日)「つばさ」
第1回アカデミー作品賞を受賞したサイレント映画「つばさ」(1927年)がWOWOWで放映された。僕は名前だけ知っていて初めて見た。第一次大戦を舞台にした戦争映画で、当時としてはかなりの超大作。複葉機と戦車、白兵戦が入り乱れるクライマックスには相当の予算がかかっている。古い映画とバカにできない迫力だ。Wikipediaには「空中戦映画の先駆的な超大作として映画史上に名高い作品」とある。
終盤の展開には少し疑問があって、現代の映画だったら、ここから深刻なドラマが始まるところだろう。この映画はさらりと反戦に絡めて(すべて戦争のせいにして)終わっている。
2013/02/02(土)「ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日」
映画を見る前にヤン・マーテルの原作「パイの物語」を読んだ。乗っていた船が沈没して主人公パイが救命ボートでトラと漂流する部分(第2部)が大半を占め、ここが一番面白いのだが、この小説はその後にこれまでに語った物語をひっくり返すような第3部があり、ここが文学的な価値を高めている。物語とは何なのか、なんてことを考えさせられるのだ。ブッカー賞受賞が納得できる傑作だが、映画にするのは相当に難しいと思えた。文学的なテーマと凄惨な描写があるからだ。果たしてアン・リー監督はどうやって映画化したのか、俄然興味がわいた。
映画を見て驚いた。アン・リーは原作にかなり忠実に映画化している。凄惨な描写はマイルドな表現に変えてあるし、一部省略したエピソードもあるが、原作にここまで忠実で成功した映画は珍しい。何が良いと言って、ビジュアルな部分が素晴らしいのである。原作を読みながら、こちらが頭でイメージした映像を上回る映像を見せてくれる。激しい嵐、逆巻く波、大きなうねり、ジャンプするクジラ、鏡のように凪いだ海、青白く発光するクラゲ、空飛ぶ大量のトビウオ、島を埋め尽くしたミーアキャットの大群などなど、どれもが美しくリアルで目を奪われる。スタッフは見事な仕事をしており、文学の映画化としてこれはお手本みたいな作品になっている。絵で語ることに成功しているのだ。
こうした素晴らしいイメージを描出することができたのはVFX技術の進歩があるからだ。リチャード・パーカーこと凶暴なベンガルトラやハイエナ、シマウマ、オランウータン、ミーアキャットなど出てくる動物はほとんどCGだろう。動物たちが原作にある描写とそっくり同じ動きをするので逆にCGであることがはっきり分かる。動物にあんな風に細かく演技指導することはどんなに優秀な調教師でも不可能だ。しかし、この映画のCGはどれもリアルで実写から浮いていない。そこが素晴らしい。CGを担当したのは「ナルニア国物語」のリズム&ヒューズ・スタジオ。ナルニアのライオンもリアルだったが、この映画はそれを上回っている。
原作の文学的なテーマは後退しているが、それは小説と映画の表現の違いだから仕方がない。欲を言えば、主人公の漂流に至るまでの序盤が長いので、ここをコンパクトにまとめると良かったと思う。これは原作もそうで、いきなり船の沈没の場面から始まってもあまり支障はないように思えた。序盤だけは原作に忠実にしなくても良かっただろう。
さて、アン・リーが映画化に際して省略した部分とは何か。それはリチャード・パーカーという名前に関係してくる。この名前ついては映画のパンフレットに書かれているが、エドガー・アラン・ポーの小説「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語」の登場人物の一人。これは海を漂流中に食料が尽きた4人の男が“いけにえ”となる一人を選ぶという物語だそうで、食べられる羽目になるのがリチャード・パーカー。そしてなんと小説の発表から47年後の1884年、漂流中の4人のうちの一人が食べられるという実際の事件が起きた(ミニョネット号事件)。ここで犠牲になったのもリチャード・パーカーだったそうだ。
この名前をトラに付けたことでも分かるように、原作にはカニバリズムの描写が出てくる。映画ではちょっとしか出てこないフランス人コック役を名優ジェラール・ドパルデューが演じているが、原作ではこのコック、終盤にもう一度出てくる。詳細は省くが、カニバリズムの主役であり、犠牲者ともなる人物だ。ドパルデューをキャスティングした段階ではカニバリズムの部分は脚本に残っていたのかもしれない。原作にはウミガメを解体して食べるシーンもあるが、これも見て楽しい場面ではないのでカットしたのだろう。エンタテインメントを作る上でこうしたダークな部分を削ったのは賢明な判断だったと思う。
2013/01/22(火)「東京家族」
「あんたぁ、感じのええ人やねぇ」。吉行和子のセリフが心にしみる。その感じのええ人・紀子を演じるのは蒼井優。笑顔が好感度満点で、ぴったりの役柄だ。
映画は登場人物の名前もほとんど同じなら、プロットもほぼ同じで、60年前の「東京物語」のリメイクと言って良い内容(山田洋次監督はモチーフにした、と言っている)。設定で大きく異なるのは次男の昌次(妻夫木聡)を登場させることだ。「東京物語」で昌次は戦死したという設定だった。
キネ旬の山田洋次と渡辺浩の対談を読んだら、「息子」(1991年)も「東京物語」の骨格を借りた作品だという指摘があった。ああ、そうだった。「息子」もまた父親が東京に出てきて子どもたちに会う話だった。映画のポイントはフリーターの次男(永瀬正敏)と結婚を約束した聾唖者の女性(和久井映見)の姿にあった。ふらふらしているとばかり思っていた次男がしっかりと将来を見据えている姿に父親(三國連太郎)は安心する。
「東京家族」はフリーターに近い舞台美術の仕事をしている次男と書店員の紀子の関係が「息子」の2人にそのまま重なる。2人は東日本大震災のボランティアの現場で知り合い、3回目のデートで昌次はプロポーズする。会ってすぐに紀子の人柄の良さを感じ取った母親(吉行和子)は「息子」の父親と同じように安心するのだ。だから、「東京家族」は「東京物語」のリメイクと言うよりも「東京物語」と「息子」を組み合わせた映画と言った方が近いだろう。
元々は2011年12月の公開を目指していたが、東日本大震災が起きたため、山田洋次は撮影を1年延ばした。現代の日本を描くのに震災がない設定では不自然だからだ。それにしては震災への言及は少ない。父親の親友の母親が陸前高田市で津波に流されたという設定と、昌次と紀子の出会いに設定されているだけだ。山田洋次は被災地に足を運んでいるし、入れようと思えば、いくらでも震災のエピソードを入れられたはずだ。それをやらなかったのは震災のエピソードを入れすぎてはテーマがぶれるとの判断があったためなのかもしれない。
戦後8年の日本を舞台にした「東京物語」は核家族化の問題を浮かび上がらせた。このテーマは60年たった今も古びていない。しかし、同じテーマを描くだけでは震災後1年の日本を舞台にする意味があまりない。「息子」の細部には当時の風潮を取り入れた同時代性があって感心させられたが、「東京家族」には同時代性や社会性が足りないように思える。それが映画の弱さにつながっている。
年配者の観客が多い映画館は随所で笑い声が上がった後、クライマックスではすすり泣きが聞こえてくる。笑わせて泣かせる大衆性は「東京物語」より上だと思うが、映画の完成度では及ばないし、山田洋次作品としては残念ながら佳作にとどまったと言わざるを得ない。
2012/12/27(木)「光のほうへ」
2010年のデンマーク映画。東京では昨年6月に公開されたが、宮崎での公開は今年1月。大きな賞を取っているわけでもなく、それほど話題にもならなかったのでほとんど期待せずに見たら、しみじみと良かった。端的に言って肉親の絆と人の再生を描いた映画だ。
ラスト近くまでやりきれない展開である。冒頭、少年2人が赤ん坊の弟に洗礼のまねごとをしている。母親はアルコール依存症。兄弟は母親の代わりにミルクを作り、赤ん坊に飲ませる。しかし、赤ん坊はある日、突然死していた。十数年後、成人した兄のニック(ヤコブ・セーダーグレン)は恋人のアナと別れ、自暴自棄になって最近まで刑務所に入っていた。狭い臨時宿泊施設(シェルター)で暮らしながら、酒浸りの日々だ。弟(ペーター・ブラウボー)は2年前に妻を交通事故で亡くした。今は幼稚園生の息子マーティンと暮らすが、麻薬中毒になっている。兄弟2人とも希望の見えない最底辺の生活だが、より哀れを誘うのは子どものいる弟の方だ。
麻薬を打ち、寝過ごした弟は冷蔵庫が空っぽなのを見て、昼食を持たずに幼稚園へ行けとマーティンに言う。今日は友達の昼食を分けてもらうんだ。「いやだ」とマーティンは泣き出す。「いつだって、そうじゃないか!」。
この後、兄弟はそれぞれの事情で逮捕される。雪がぱらつくある日、ニックは刑務所の中庭で鉄格子の向こうにいる弟をみつける。
「おい! 兄さんだ」 「ニック」 「なんてザマだ」 「言えた義理か」 「いつここに?」 「3週間前」 「マーティンは?」 「どこか知らない…。兄さんを想ってた」 「俺もだ」 「もっと話したかった。もっとたくさん会えばよかったよ」 「電話しようとしたんだ」 「あの時、俺たちは悪くなかったよ。いい兄さんだった。精一杯やった。俺も頑張ったよ」 「どうしたんだ。大丈夫か?」 「でも、これまでだ」 「何だって? 何て言った?」
この場面からラストに至るまでが秀逸だ。兄弟の絆、親子の絆、過去との決別、そして再生。そうしたもろもろのことが描かれる。自暴自棄だったニックが再生のきっかけをつかんだのは弟との刑務所での再会だっただろう。ニックの右手にはアナのイニシャルの刺青があったが、映画の初めの方でニックは苛立って公衆電話を何度も殴り、右手にけがをする。それを放置していたため悪化し、刑務所の中で医者から右手を切断されてしまう。右手をなくしたのは悲劇だが、それは同時に自分を呪縛していた過去との決別にもなったに違いない。そしてマーティンの存在がある。マーティンの名前の由来が明かされるラストは重たくて、ある意味、幸福な余韻を残す。傑作だと思う。
原作はヨナス・T・ベングトソン。監督はトマス・ヴィンターベア。原作はスウェーデンの文学賞を受賞しているそうだ。映画のIMDbの評価は7.4。僕は人が再生する姿を描く映画が好きなので、8.0ぐらいの評価をしたい。